作品詳細

風景の触手

風景の触手

上野芳久

私たちはどんな風景と共に生きたのだろうか。

風景とは何か。上野芳久が時と共に歩んできた道は下北沢駅界隈から迷路へ続いてゆく。草むらを分け入り、そしてタブーの扉へと導かれてゆく。銀の鏡はどこにあるのだろうか。宙に浮いたように歩行は果てしなく続く。1979年から2011年の間に発表されたエッセイ集。


世田谷と萩原朔太郎

一、猫町歩き

 この度、世田谷文学館で、「萩原朔太郎展」が展かれるというので世田谷と朔太郎について述べる。まず年譜を確かめる。

 昭和六年(一九三一) 四十六歳
 九月、府下世田谷町下北沢新屋敷一〇〇八番地へ移り、母、二児、妹アイと住む。
 昭和八年(一九三三) 四十八歳
 二月ごろ、世田谷区代田一丁目六三五番地の二に自分で設計した家が完成し、一家で移る。
 昭和九年(一九三四) 四十九歳
 六月、詩集『氷島』を第一書房より刊行。
 昭和十年(一九三五) 五十歳
 十一月、散文詩風な小説『猫町』を版画荘より刊行。

 『氷島』『猫町』などが書かれている。
 朔太郎は還暦にいたらずに意外と早世、晩年の約十年を世田谷で過ごしている。人が思っているよりも、朔太郎にとって世田谷は重要な時期である。
 問題は《下北沢》である。ある日、下北沢の喫茶店で吉増剛造さんと会った。「下北沢不吉!」「かつてここは猫町だった」(『黄金詩篇』)と書いていた吉増さんと、朔太郎『猫町』の原風景は下北沢にあるのではないか、と同感をした。「猫町歩き」と称して、下北沢を散歩した。幾度となく。『猫町』の一節「一体こんな町が、東京の何所にあつたのだらう。」吉増さんと同調して世田谷区役所に行き旧住所と新住所を照合、下北沢の住居を散策した。驚いたことに朔太郎が生活していた下北沢の新屋敷がそのまま残っていた。それは私がいつも散歩していた道端であった。代田は家の場所は特定出来たが戦災でなくなったとのこと。「猫町歩き」については吉増さんの『太陽の川』に書かれ、『鳩よ!』で取材を受けている。吉増さんは旅の詩人である。当時恐山や旅の話を聞くのが楽しかった。そんな訳で、吉増さんと私とで『猫町』という雑誌をやろうという話になった。三好豊一郎さんに題字を書いてもらい準備までしたのだが、私が実家に帰ることになったし、吉増さんも八王子に居を構えるという事情もあって「幻の雑誌」になってしまった。
 朔太郎の『猫町』には下北沢という町が原風景として沈んでいる。そう思って町を散歩するととても楽しかった。現在の風景をはがしていってみると当時の風景が見えてくる。
 吉増さんとはお茶を飲んだり、お酒を飲んだりして夢のような話をしつづけた。吉増さんの出発は芭蕉と北村透谷である。吉増さんが詩の朗読で透谷の『蓬萊曲』を読み、ここには「蓬萊曲問題」というものがあるなと呟いていた。それに触発されて、当時『蓬萊曲』を読んでいたく感動した。北川透さんの『北村透谷試論』と吉増さんのこの呟きがなかったら私の『北村透谷「蓬萊曲」考』(白地社)は書かれなかった。出版に一番早い反応は吉増さんであった。速達で「快書出版」と届いた。(後略)

散文(随筆)
2020/05/30発行
A5判 148X210 並製

3,850円(税込)