作品詳細

Melody
不在のあなたの生が燦く一瞬、夏の雨のように詩は生まれる。
(河津聖恵)
朝妻誠は彷徨う人だ。
インドを彷徨い、地球を彷徨う。
いや、あの世も彷徨っているのかもしれない。
鳴り止まない孤独なメロディはこの詩集から旅立ってゆく。
Rainy
「レイニー!」とあなたは言った。雨が降り出したのだ
と思う。昼間の強くて短い雨の時間が終ると、空に薄い
半円の虹が出て、僕たちはそれをしばらく眺めていた。
それから僕はあなたと何か冷たいものを買いに出かけた
はずだ。太陽はまた元に戻っていて、僕たちは歩きなが
ら汗をかいていた。夏の陽射しは強い。真夏は太陽の光
の加減で、木立の葉陰が洞窟のように見えてしまうこと
がある。僕はその日、その洞窟の中で何かが見えたよう
な気がした。そしてそのときなぜか僕は、あなたが僕と
同じものを見たのではないかと思ったのだ。あなたはこ
の国に生まれた人ではないのに。
あなたに初めて会ったのはひどい風で朝から雪の降り
続く寒い冬の日だった。夜になると風は治まったけれど、
街は本当に真っ白になった。僕の街の小さな駅の待合室
にいたあなたは、誰かを探している様子だったのだが、
僕の顔を見るなり、「スノー!」と言ったのだ。僕は傘
を持っていたから、あなたを街の小さなホテルまで送っ
て行った。湿った雪が僕の傘にひどく重く降り積った。
あなたからの手紙が届いたのは、春になって日差しが暖
かくなってきた日の午後だった。なんだか僕に何を伝え
たいのかよくわからない手紙だった。それからしばらく
して、あなたは突然僕の街に現れたのだ。
あなたと暮らしたのは何年間だったのだろうか。もう、
はっきり憶えていない。誰にも言わなかったけれど、僕
たちは僕たちにしか見えないものが見えたから、よく二
人でくすくす笑いながら囁き合ったりした。あの人、本
当は小さな女の子と暮らしていたんだよね、とか、本当
にどうでもいいようなことばかりを。僕たちはなんだか
おかしな二人に見えたのかもしれないね。いや、僕たち
のことなんて、この街の人たちはそんなに興味がなかっ
たのかもしれないけれど。
あなたに一度だけ触れたことがある。あなたの白い服
を脱がすと、あなたの温かい乳房はとても柔らかくて、
僕はなんだか安心してしまった。そして熱くて濡れてい
て、なんだか懐かしいやさしい性器だった。でも僕たち
は性交なんて一度で飽きてしまって、二人でベッドの中
でふざけながら、昨日や一昨日の夢で見た場所や現実に
行った場所のことなど、長い時間をかけて語り合うこと
の方が多かったのだ。
あれから何度も夏が来て、何度も秋が来て、季節は変
わり続けて、時間はどんどん経っていった。あなたから
来た手紙はテーブルの上に重なり続けた。最後の手紙に
は写真が入っていた。まるであなたの心だけが身体から
抜け出して同封されて僕の街に届いたみたいだった。あ
なたはベッドで微笑んでいた。髪の毛は白くなっていた。
僕はまたあなたのサラサラだった長い金色の髪を思い出
してしまう。
あなたのいなくなったこの部屋に、あなたの古い写真
がある。写真はただの切り取られた時間だ。何を話しか
けてもあなたはずっと微笑んだままだから。夏の日、雨
が降りそうになると、今でもどこからか「レイニー!」
というあなたの声が聞こえるような気がする。とても会
いたいけれど、僕ももうこの国から出られない身体なの
かもしれない。今日もあなたに届くかどうかもわからな
い手紙を書き続けている。いま季節は秋だが、もう冬が
近づいているのだ。
詩歌
2025/02/28発行
四六判
上製本 カバー 帯付き
帯文:河津聖恵 / ブックデザイン:川島雄太郎, 川島康太郎