作品詳細
インカレポエトリ叢書 4
飛石の上
第26回中原中也賞最終候補
「水もまた言語であった」
からっぽ
かれの一生は
かれを出しぬいて殺そうとする者を
出しぬいて殺すことだけに捧げられ
いまわのきわにあってもかれは
その耳に聴こえてくる音楽の名を知らなかった
それが分からぬためだけに
かれはいつまで経っても死ねないのだった
いわれのない不文律に
足もとをすくわれた女
彼女は美しくはなかったのだけれど
多くがそうするのと違って
くだらない色じかけをしなかったのは
それが理由ではない
その手ぎわはあくまであざやかで
彼女のひきょうは
この上なく高潔だった
彼女はひとつだけ音楽をもっていた
土とけだもののかおり立つ
かなしい木々のささやき
その名の分からぬことなど当然で
了知のなかに女は息たえた
教えておやりよ
死の意味を
きみの斃した
あの迷子に
報せ
月曜の昼間から
出掛ける用もなく
わたしは靴を磨く
同い年でもう死んでしまった犬のことが
脳裏をよぎった
わたしが思い出すべき犬は二匹
一匹は祖父の犬
一匹は近所の犬
祖父の犬はわたしより一日だけお姉さん
近所の犬はわたしの手をよく舐めた
白と黒ばかりで
身体の色がよく似た二匹
どちらの死にもわたしは立ち会わない
ゆるんだ口から荒く、くさい息が漏れ
わたしのことは分かるのかどうか
それでも
差し出すことさえすれば手を舐める犬の
あるいは、気づかないうちに
写真の中に仕舞われていた犬の
ぼんやりとした瞳──
とっくの昔に発送された報せが
突然わたしのもとに届く日があって
きまってわたしは手を使っている
今日のは不慣れな仕事
勢いあまって
クロスをはみ出したクリームが
冷たい
後悔を載せきれない
ちいさな手のまま
わたしは大きくなってしまった
架空の便箋なら何枚でも持てる手
書かれていることは同じなのに
一枚を残してすべて捨ててしまうことはできない手
近ごろ犬など
触ることのない手
いましがた靴磨きは終え
することもなくなって
しかたなく報せを拾う手
どこへ向かおうというのか
今日靴を履くことはない
詩集
2020/10/10発行
四六判
並製