作品詳細

詩と俳句の問題
長く詩に携わってきた著者が、俳句の抗しがたい魅力を論じた「俳句時評」、「戦後詩」に携わった人たちから何を受け継ぎ、受け渡していくのかを語った「戦後詩の帰趨」によって、詩と俳句の問題を考える。
目次
俳句時評
七五の呪縛
「参照性」の問題
師系と結社
「第二芸術」論批判
遠いものの連結
俳句の特質
季語のこと
加藤楸邨の苦闘
連句と俳句
谷川俊太郎の俳句
高橋睦郎と澁谷道
ヴァナキュラーな文学と角川源義
戦後詩の帰趨
大岡信――蕩児のゆくえ
宗左近――「炎える母」考
那珂太郎と眞鍋呉夫
小田久郎と鮎川信夫
粟津則雄追悼――ペテロの否認
音楽の薫陶
「暗い眼」の少年と京都学派
氷見敦子――生の完遂
矢山哲治と「こをろ」――『矢山哲治』補遺
川内村と心平――『草野心平』補遺
あとがき
───
私は五十年以上詩を書いてきた。はっきりと俳句に関心を持ったといえるのは、五十歳代なかばになってからだ。直接のきっかけは、山本健吉の『俳句とはなにか』(角川ソフィア文庫)、川名大の『現代俳句(上・下)』(ちくま学芸文庫)などを読んだことによる。そこには、俳句の成り立ち、その特質、明治期以降の各流派ごとの俳人の秀句が並んでいて、刺激を受けたのだ。
そのころ、山口県秋吉台で開かれた現代詩セミナーで「自由詩の伝統はどこにあるのか」(「現代詩手帖」二〇〇三年三月号)という公開座談会が開かれた。そのなかで高橋睦郎は、短歌や俳句に対して自由詩を「現代詩」と呼ぶのは不正確で、短歌や俳句、あるいは歌謡も「現代詩」であるという趣旨の発言をしたあと「短歌や俳句にたいして現代詩が特権的な存在であると考えることは間違いなのであって、現代短歌や現代俳句という呼びかたがあるのであれば、ここに集まった人々が書いているのは「現代詩」ではなく「現代自由詩」と呼ぶのがより正確でしょう」と述べている。そうなのだ。「現代詩」には、「現代〔自由〕詩」と「現代〔定型〕詩」があるのだと納得した。
詩人たちのなかには、俳句を作るというと、詩に行きづまって俳句に白旗をあげたかのように言挙げするひとがいる。また歳をとったら俳句という通人趣味に閉じこもるというひともいる。一方で句会の仲間からは、どうして詩人らしい奇抜な俳句を作れないのかと言われる。けれども、詩を書いてきたものが実際に俳句を作ってみると、思わぬ困難があることが分かってくる。七五の呪縛という問題である。言い訳めくが、詩と俳句は、たとえていえば百メートル走の選手と砲丸投げの選手ほどには使う筋肉が違うのだ。今回「俳句時評」を担当させてもらう機会を得た。この機会に詩と俳句、また短歌について私が考えてきたことを整理しながら述べてみたいと思う。
(「七五の呪縛」より)
評論集
2026/08/15発行
四六判
並製 カバー 帯付
