作品詳細

Kaewの香り

Kaewの香り

志田道子

それにしてもボクらの時代

わたしという存在が受け止めているこの「時」この「場」を、言葉という最も基本的な表現方法で、記録しているつもりでした。非常に短いかたちでの物語を、言葉そのもので直接届けられる情というよりも、映像に翻訳され、語らせるようなものを求めてきました。たとえ、それが「詩」ではなく、「描写」に過ぎなかったとしても。なるべく世代を超えてひとの心に届きやすい表現、そして外国語にも移しやすい表現、短く完結する映像・画像を介したようなものを求めて。 (あとがきより)



とりあえず


ころげ落ちるように駆け下りた坂
かろうじてつま先で立止まった水際
岸はコンクリートで固められている
闇のなか潮の臭いと護岸を打つ波の音
風の音はしない どうせ滑り落ちるなら
やわらかい雪の降り積もった山肌を
スキー板に乗って飛び降りてみたら
どうなんだ 風を顔いっぱいに受けて
きのうのボクとはサヨナラだ
いずれにしても 時も場所も自分を押しやる
流れの向きも掴めない
何が始まるのか何が起こったのか
分からない そんなときには
降りろ降りろ とりあえず
脱出しろ 飛び出せ
狂ってしまえ 今は きっと 
そんな時代なってしまっているんだろう



それにしてもボクらの時代 


下りエスカレーターは遅くも速くもない
ゴトン ゴトンと大きな歯車を回す
人の意思とは関わりなく動く下り階段の
無数につながれた踏板の上で
キミは何を見ているのだろう
パーキンソン病が進行する前にと
早々とプラスチックに入れ替えた水晶体で
きっとキミは何も見ていないに違いない
それにしてもボクらの時代
戦の場を戦争から経済競争に乗り換えた
この地に禄を喰んでいて
ボクたちは肌に血を流すことこそなかったが
お互いに比較され二十四時間寝食忘れて励めと鼓舞されて
心には満杯の傷を貯え続けた
ボクらは縦の評価の中に放り出された
成績も、職業も、幸も不幸も、
ボクらの心には序列がすぐ育つ
配列を探るために周りの顔色をうかがい
お互いの位置を確かめて
取るべき姿勢を決めたりする
功名心がおもむろに鎌首をもたげてくる
優秀な兄や姉たちに囲まれて育ったキミは
親の関心を兄姉に奪われ
いつも親の視線に飢えていた
いつも人の承認を求めて息を殺していた
キミの心はいつも大声で泣き叫んでいた
やがて
賞賛を期待して大いなる犠牲にまで手を染めた キミは
エスカレーターの上からキョロッと
「世間」を見下ろして
誰にも見られていなかったことに
はじめて気がついたのかも知れない
まったく
戦士には男も女もなかったのだし

詩集
2024/12/25発行
四六判 並製 カバー

2,200円(税込)