作品詳細
インカレポエトリ叢書 5
稼働する人形
「人間ではなくなるときが近づいてくるのを、じっと待っている。」
王国
八角形のハチノスの中で
丸まって眠る幼虫だった
水と空気の境をまたぐように
ガラス張りの壁を出入りして
おないどしの幼稚園生はみな
社交ダンスを習いに行くのに
わたしだけが眠くてたまらず
埃っぽくてやわらかい部屋の
揺りかごの奥で夢を見ていた
繭を割って羽を伸ばし
食べものを捕りに発つ者たちの脇で
羽も甲殻も針も持たずに
わたしは外を眺めている
蝋のサンプルのようにうつくしく
わたしのものにはならない世界を
髷をばらん、とほどくように
ガラスをがらんと割ればいい
溢れ、なだれこんでくるものを
尖って飛び出た不揃いの歯と
分厚く艶めいた唇とで
咀嚼し
呑みくだしていく
一個の口になればいい
世界を自分のものにするために
生白く幼い体を
際限なくふくらませて
世界そのものになればいい
八面のガラスに囲まれて
たった一匹のハチノコは
王のようにすべてを持ち
王のように孤独である
万年水
霧雨ほど注意しなければならない、と
むかし母親がおおまじめな顔で
言っていたのだった
濡れていないと思っていても
水は肌からしみこんで
からだの奥へ浸透する
気づかないうちにしめりけが
ぐずぐずと巣食うのだから
傘を差すことを怠ってはいけない と
雨のもたらすやまいを
彼女はおそれていた
それがどんなやまいであるのか
わたしには見当もつかなかった
あの頃は
手を伸ばせば届くところに
傘がたくさん置いてあった
乾いた後できっちり畳まれ
玄関に立てかけられて
霧雨をわたしは好きだった
触れてはいけない理由など分からない
雨を避けて暮らすことに
反発をつよめてからは
小雨にも大降りの雨にも
すすんで肉体を差し出した
世界に濡れてまじわるとき
わたしはすべてに君臨する
とにかく誇らしいのである
濡れたものも乾かないうちに
ふたたび外へ跳び出して
家には寄りつかなかった
からだに張りつく水気は
苔の生えた万年床のように
全身をやわらかく包みこみ
やがて湿った布団の中から
極彩色の夢の胞子が漂い始める
わたしは胞子を胸に抱いて
大切に大切に育てた
あざやかな色が肌の上に
ゆっくりと延び広がって
すきまを埋める
その頃しみこんだ雨粒が
深い場所に溜まっていて
時おりひょっとしゃっくりする
つめたく残るやまいのたねが
肉を 神経を 骨をおかして
わたしをみじめな骸にする
はやく屋根のあるところに入り
台所の火を熾さなくては
そう思って一散に走る
わたしだけの部屋にたどり着き
扉を閉めて鍵をかける
夢の名残を乾かすために
詩集
2020/12/10発行
四六判
並製