作品詳細

じぇるも い のちぇ

じぇるも い のちぇ

荷田悠里

荒野をさ迷う私の今は夜

 兄が亡くなって、今年で五年になります。
 グリオブラストーマとは、脳腫瘍膠芽腫のことです。兄が救急搬送された先の病院で余命一年半、五年生存率は5%と告げられました。現代の医学でも治ることは難しい病気です。
 つい最近になって「なぜ、わたしは兄の闘病記ではなく詩というスタイルを選んだのだろう?」と不思議に思いました。わたしにとって最も〈リアリティ〉を表現できる手段が詩だったから詩を選んだのだと、今思っています。
 わたしの感じたあの頃の現実は夜の記憶ばかりです。タイトルに夜(のちぇ)という言葉を入れたのもそれが理由です。
(著者 あとがきより)



さあばあだうん (中原中也の声がします)


脳がさあばあだうんして
海辺の飛行機は健全です
墜落する天使はミクロの世界に向かうため
復旧の目途は現在経っておりません

脳内には静かなブロッコリーが満ちあふれ
日々増殖して 世界を宇宙を浸食していきます
やがて宇宙は美しいみどりにむせ返ります

植物に慈悲があったならば
脳はさあばあだうんしなかっただろう

わたしはひかる宇宙のブロッコリーをもぎ取って一口齧り

兄の永遠に復旧しない脳のことを思い浮かべました



Noche


そこは暗闇というよりは
液状の夜
よく磨った濃墨でできた湖に
そっと右足を入れる
左足も入れる

とろりとした夜の中に
身体を沈めて目を閉じる
伝えたかった言葉が夜に溶け出してゆく
それらは文字になる前に形を失う
そしてからだは空っぽになって
眠りに落ちる
右手に握っていた墨が
するりと湖の底に吸い込まれていった
深い夜の底に

音の消えた湖に
月が静かに溶け始めた

詩集
2023/06/30発行
四六判変形 (128x145) 並製 カバー

カバー絵・挿画:山下博己

1,650円(税込)