作品詳細
十六歳、未明の接岸
第28回埼玉詩人賞受賞
詩の力を見よ! 十六歳は自らの力でよみがえったのだ!
半生のエピファニーを清らかに歌い上げる22篇がここに在る。
人は繊細な生き物である。
まして思春期は自分の世界こもり、自らを見失うことがある。
松井ひろかは長谷川龍生という詩人と出会い、自らを蘇らせた足跡を綴るのだ。
閉じられた庭
砂原の ゆるやかな坂をのぼったところ
おもちゃの家を置く
古めかしい平屋 その縁側で
小太りの女がにやにやしていた
微妙にずれて引かれた口紅 大きな乳房
どんなに風呂で洗っても垢抜けぬ
純粋という不潔さ
坂の下 砂の川に沿ったところ
おもちゃの小学校を置く
怒ると靴を投げつけてくる教師
廊下を駆け回る 幼すぎるともだち
調律の行き届いていない体育館のピアノ
糸が切れたわたしは
上履きのまま川原まで駆けていった
奔流に胸を洗われる
文目もわかぬうちに
この流れに身を投げれば良かった
魔魅のせせらわらいが聞こえ始めていた
早熟でいて
育ちそこないであったわたし
砂原の風紋を蹴り上げる
おもちゃの家を窓の外に放る
おもちゃの学校に火をつける
舞い上がる砂埃
この手でひっくり返して
すべてを終わらせた
十六歳の夏
鈍色の街、わたしの街
西川口 夕まぐれの痛切
あえかなる光線
多彩な肌色と肌色とが
重ねられ 混ざり合う
猥雑なネオンの街
赤いバンダナを頭に巻いて
十八歳の半年を勤めた 駅前のパチンコ店
お客たちに飲み物を提供する
それがわたしの仕事
一杯のコーヒーに溶ける 胸焼けするほどの砂糖とミルク
国境に関わりない慢性の淋しさに
打ちひしがれる愛 喧噪のなかの孤独に浸り
血の通う人間であろうとすればするほど
賭けごとに身をまかせ 依存せずには生きられい 傷つけ 傷つけられつづける
人間のか弱さ 滑稽な日常
哀しみのにじむ笑みをたたえ
暗闇のなかでしか息ができない
そんなひとたちが吹き寄せられる街
それがわたしのふるさと
右手でパチンコのハンドルを握り 左手でゆりかごを揺らす異国の女たち
煙草の脂のにおい それはわたしのアロマ
パチンコの電子音 大音量のBGM それはわたしの子守唄
コーヒーをデキャンタに落としていると
浅黒い肌のおかっぱあたま 大きな瞳の少女が現れた
泥で汚れた体操着
膝には絆創膏
ケイコね 西川口幼稚園行ってんの
お母さん 二階でお魚釣ってんの
あけっぴろげな少女に
ちょっと待ってな オレンジジュース飲むかい
少女はうなずいて
コップに半分注いだジュースを飲んだ
ごくごく動く喉 活きの良い かわいい生命
コーヒーはいかがですかあ
コーヒーはいかがですかあ
わたしの真似をしながら ついてくる少女
『海物語』の台の前で 少女の フィリピン人らしき母親が
どうもすみませんとあいさつして ホットコーヒーを一杯買ってくれた
午後十時の店じまい 近所の両替所
窓口から差し出される皺の寄った手 ボールペンの束を渡す
今日はよくがんばったね ごくろうさん
両手のひらで受け取る むきだしの やさしさと現金
外に出ると 店の前
日本人らしきお父さんにおぶわれ
お母さんの手を握った 眠そうなケイコがいた
マフラーに顔をうずめ
見なかったふりをすると
きれいな包帯がたなびいて
流れる星を止血する
見上げれば 鈍色の空
愛がよぎる
詩集
2021/09/25発行
四六判
並製